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2008年07月27日

医療の現在 患者中心の医療

前回は、“ 患者中心というのは、成り立つのでしょうか。”という文章で終わりました。
この問題を、少し考えてみます。
そもそも“患者”という言葉ですが、広辞苑では、“病気にかかったり、けがをしたりして、医師の治療を受ける人”となっています。
傷病者は未だ患者ではないのです。医師の治療を受けようと決断し、現実に受療行動を実行した時、患者になるのです。ということは、傷病者の意思の発動から、モノゴトが始まっているのです。自分は患者になろうと決意し、行動したのです。受動的、能動的という表現を使えば、能動的なのは、傷病者なのです。
従来、いったん患者になると、受動的な立場に変貌する感がありました。
以前、診察室で患者の座る椅子は、背もたれもない、丸い貧素なもので、立派な医師の椅子と対照的でした。医師―患者関係は、パターナリズムで、医療はそもそも充分な供給量がない時代、1960年代のことです。時代とともに 患者→患者さん→患者様 と呼称が変わり、パターナリズムからインフォームドコンセントへと変わりました。この10年は、医療行為で結果が重大だと、医師が刑事事件で訴追されることも稀ではなくなりました。医療側も防衛に走る昨今ですが、改めて基本的なことを考える必要があると思います。
実は、医療は患者の受療行動から始まるので、本来的に患者中心にならざるを得ないのです。
医師の思いやりとか医の倫理とか、顧客満足度を上げる医療サービスの提供とか こうした医療側の努力とは関係なく、そもそもが患者中心なのです。受療を決意し患者になった傷病者の問題を、どう確定して、解決するか、それ以外に医療のする仕事はないからです。
また、患者はいつ患者であることが終わるのかという問題もあります。風邪で数回受診したというケースは、治癒して終わりで分かりやすいのですが、慢性疾患、高齢になり複数の疾患を持っている、心身的に病んでいるなどのケースだと、人生の最後まで患者として、医療と関係を持つことになります。そうなると、本来、自分の意思の発動として患者を選んだという原点が、ぼけてきます。
しかし、この原点は大切です。自分の意思で患者を選び、こうして決断した人の問題解決のために、医師は専門家として力を振るい、いつか患者から普通の人に還ることを展望している。こういう関係の時、インフォームドコンセントも実効性を持つのではないでしょうか。
公的医療保険制度の下、医療を受ける基本的人権は当然として、人対人の関係の基本は押さえておくべきだと思うのです。
  


Posted by 杉謙一 at 14:58Comments(1)

2008年07月08日

医療の現在 病と呪い

親の心子知らずという言葉がありますが、前回書いた、少しでも長生きしたい、少しでも不快な思いはしたくないというヒトの“こころ”に身体はいつも応えてくれるとは限りせん。
例えば、花粉症の問題ですが、スギ花粉を抗原(ヒトにとっての敵)と記憶する、リンパ球ができてしまい、新たにスギ花粉が飛来すると、一連の免疫応答のスイッチが入ってしまいいくとこまでいってしまう訳です。これが寄生虫のようなヒトにとって不利なモノに対して発動されたなら、ヒトにとって得な免疫応答だという訳です。
事実、寄生虫にしろ、黄色ブドウ球菌にせよこうした、ヒトに悪さをしていた、微生物が、とても少なくなった現代の豊かな清潔な社会環境が、アレルギー性疾患の激増の背景としてあるのではないかという説も有力です。
こうした生体反応や生命現象は、切実なヒトの思いや欲望とは、関係なく一定の手順で粛々と進行していくのです。
こうした観察を可能にしたのは“病とは、ある機械的原因に対して反応する諸組織の、ある複雑な因果的な動きにすぎない”という、醒めた、中立的な病気観で、これこそが近代医学を暗黙のうちに支えていたのです。
病を、呪いや祟りと考え、除霊や祈祷に頼っていた病気観となんと大きな飛躍でしょう。でも本当にどこまで私達は変わったのでしょうか?
服だけ脱ぎ変えても、中味はあまり変わってないのかもしれない、しかし昔の様式や手順は消滅しているので、欲望や思いは無意識の世界を駆け上って、突如、姿を現すかもしれない。
親にとって、子は生きがいであると同時に尽きせぬ恐怖の源かもしれないのです。
  


Posted by 杉謙一 at 05:07Comments(0)

2008年07月05日

医療の現在 炎症

前回、“病勢”と“回復力”という言葉を使いました。医学領域での専門性から逸脱した用語で、専門家にとっては胡散臭い用語だと感受されることは覚悟して少し敷衍してみます。
“炎症”という医学・医療でのキーワードがあります。古くから熱感、発赤、疼痛、腫脹の四つの徴候で特徴づけられてきました。ある部分が赤くなり、触ると熱を持ち、腫れていて痛みを持つということです。クラシックな“病気らしい病気”です。
以前に遡ると、外傷、骨折などの外因性疾患(外科領域)があり、他方内科領域では、炎症、腫瘍(悪性のものがガン)、血管障害があり、これで殆どの病気が尽くされていた時代です。こうした時代、炎症は病理学での主要な関心事でした。
時移り、細胞レベル 分子レベルで、研究されるようになった現代でも、炎症は病理学の大きなテーマです。門外漢ですが、素人的に傍観すると、炎症を惹起しようとする因子(代表は病原性微生物)とこれを排除しようとする因子(免疫関連細胞)の“鬩ぎ合い” そのプロセスが“炎症”という古代から観察、記述されたのではないかということです。
こうした炎症の特徴は①ダイナミックに動いていること。②善悪二元論では、殆ど理解できないこと③動きがどの方向に向かうかは究極的にはブラックボックスであることではないかと、とりあえず考えます。
①は、病原性微生物が感染したので、宿主であるヒトが一方的にやられるというものではなく、やられたらやり返すといった頻繁な応酬なプロセスであるということ
②はヒト攻撃する軍勢(例えば細菌)と守る軍勢(例えば血球)は、悪と正義のように予め二分されているのではなく、攻撃している因子が突如守る側についたり、守る側の因子が突如攻撃する因子に寝返ったりといったことが頻繁に生じる複雑なプロセスであるということです。
③医療的介入をした時 良くなった、変わらなかった、悪くなったと3通りあります。このどこに帰着するか、何故そうだったのか 古代から医学・医療の一貫したテーマですが、どこに帰着するかは、最終的には、わからないということです。明らかな薬の誤用などは除いて。
こう考えていくと、“病勢”とか“回復力”とかの日常的用語は考える場合ある程度有用だと考えているのです。
  


Posted by 杉謙一 at 05:58Comments(0)

2008年07月04日

医療の現在 脱線

突然、脱線して恐縮ですが、本日杉クリニックで18時30分から、“メタボ健診”について90分程度話しをすることになっています。
“メタボ健診”とは、ご存知のように40歳以上の人全員を対象とする健診制度で、本年4月1日から創設・施行されました。臍回りを測定して、男性85cm,女性90cm以上を問題として、ここを入り口としたアルゴリズムで、健診を受けた人全員を階層化し、保健指導して、生活習慣を変容させようという壮大な計画です。
現在、心身相関について、考えている位置からは、遠く離れた世界です。しかし医療の現在ではあります。
医療を考えていくと、結局、人間とは 世界とは という問題に立ち至ることを暗示してくれる振幅の大きさです。
もっとも医療以外のどの分野も掘り下げていくと結局同じことになっていくのかもしれませんが。
今から、今日のメタボ健診講座の準備を迫られています。明日の朝は、また心身相関の世界に戻る予定です。
  


Posted by 杉謙一 at 06:07Comments(0)

2008年06月16日

医療の現在 風邪への対処法

前回のEBM(証拠に基ずく医療)についてです。これは当たり前のことを大袈裟に言っるようでもありますが、例えば、「風邪の時は風呂に入らない方がいいですよ」と医師が指導したとして、本当にそうなの?という素朴な疑問があります。お祖母ちゃんからの言い伝えみたにも思える訳です。風邪のポイントは自然に治ることです。多くの体調の不良は自然に治る訳ですが、風邪は急性に、そこそこの症状が出現する、印象的なエピソードなので、なんらかの対応をせざるを得ません。対応の一つとして、風邪が治るまで風呂に入らないというのがあって、そこそこに流布しています。
でも、本当だろうか。はっきりさせようとしたら、風邪を引いて風呂に入った場合と風呂に入らなかった場合を比較して、直るまでの期間を比較するしかありません。この為には、統計学が必要です。“有意差”という概念があって、偶然とは言えない確率で風呂に入ると風邪が治るまでの期間が長いということになると、「風邪の時は風呂に入らない方が良い」ということについて、証拠があがったということになります。つまり、医師が「証拠がありますよ」と自信を持って、入浴の禁止を指導できるという訳です。
「風邪なんて、いずれ治るのだから、どうでもいいじゃないか」という声も聞こえそうですが、例えば、余命、6ヶ月の末期がんで、苦痛を取ることに専念するホスピスケアと或る抗がん剤の使用とを比較して、その抗がん剤を使用すると本当に余命が延びるのか(有意差をもって)という問題になると、切実で、証拠があれば、その抗がん剤使用に踏み切ろうと背中を押す、重要な要因になる可能性があります。
「面倒だな、ようするに医者は、うまいことやってくれればいいのだよ」という意見もあるでしょうが、おまかせ医療が成り立たなくなった現在、医療側も手の内を開示して、理解を求めざるを得ません。手の内を覗き込むと、意外と“治療”は確固としたものとは言えず、とりあえず“介入”という中立的な用語で、実際に医療行為を実行して、事後に介入群と非介入群を比較して、統計的な有意差の有無を検定し、決着をつけようという話しなのです。
次回はEBMについてもう少し追加します。
  


Posted by 杉謙一 at 06:07Comments(0)

2008年04月18日

ブログって何?

最近、毎日書いていて、漸く”ブログなるものが”感覚的に分かってきた。日記みたいなもんだけだ、もって非なるもの。いつも他人の眼を意識しているとこが決定的に異なる。しかもその他人は昔の”世間”でもないし、一人一人の顔が浮かぶ他人でもない。ボンヤリした他人。しかし、随分とインパクトのある他人。選挙を闘っている政治家にとっての”票”と似ている。なにせ毎日の人気投票が行われているのだから。なんとなく自分も今風の人に仲間入りした感じ。でも結構疲れますね、ブログって。  


Posted by 杉謙一 at 05:33Comments(0)

2008年04月15日

ブログって何?

ブログの訪問者の数の問題です。結構、気になる。時々刻々、人気投票をしてフィードバックしている世界なんだな。ビルクリニックを立ち上げたばかりで、受診してもらう患者さんの数も気になる毎日なので、それともダブル。考えたら現代人はいつも他人の評価にさらされている。 ストレスという言葉が蔓延しているが、いつも他人の評価にさらされている背景と関係ありそう。かっての日本では”世間が許さない”というのが、人の行動規範だったが、それと人気投票の世界は違いそうだ。このテーマは明日「医療の現在」で書いてみよう。
明朝、人気が落ちてエネルギーも低下し、気力が萎えていることのないことを祈りつつ。  


Posted by 杉謙一 at 05:19Comments(0)

2008年03月16日

ブログって何?

いよいよブログの世界に船出と意気込んだのはいいのですが、はたと考えました。ブログっていいう言葉の意味は?
早速電子辞書を引っ張り出しました。広辞苑とジーニアス英和などのはいったやつ。”ブログ”ではプログラムが出てきてしまいます。あっそーか! GOOGLEの検索があるじゃないか。早速開くと、あるある! なんといっても頼りはWikipedia。こうして「WebをLogする」→「Weblog」→「Blog」という由来を知るに至ったのでした。  


Posted by 杉謙一 at 16:54Comments(0)